太平洋戦争を数値で見る
1941年12月7日~1945年9月2日
3年9ヶ月に及ぶ太平洋戦争の被害について
戦争犠牲者数310万人の内
軍人・軍属は国内20万人、海外210万人
民間人、海外約30万人、国内約50万人
1944年11月24日から本格化した本土空襲での犠牲者約46万人
特に被害が大きかったのは
1945年3月10日午前0時8分から午前2時37分の約2時間半続いた東京大空襲で約10万人が犠牲
8月6日午前8時15分17秒広島原爆投下による死者約14万人(原爆災害者35万人前後)
8月9日午前11時2分長崎原爆投下約73,884人(原爆災害者27万人前後)
3月26日から約3カ月以上続いた日米最後の地上戦(沖縄戦)では住民9万4千人(4人に1人)が犠牲
特攻隊員戦死者 海軍4146人、陸軍2225人(計6371人)
シベリア抑留57万5千人中5万5千人が死亡
満蒙開拓者220255人、満蒙開拓青少年義勇軍101627人中、約8万人が死亡(社会実情データ図録)
太平洋戦争全戦没者310万人のうち約91%(281万人)は1944年以降の戦争末期に犠牲となり
海外で犠牲になった210万人もの軍人の61%(140万人)は餓死かマラリアなどの病死
終戦後の日本
玉音放送により終戦が伝えられた8月15日
現在は終戦記念日となっているが
正式な日本側と連合国側代表による降伏文書調印は9月2日
この戦争がもたらした傷跡は
戦争孤児12万3511人 戦争未亡人50万人以上
政府が認めた中国残量孤児2557人
残留夫人4168人、家族含めて20912人 証明できず中国にいる方は多数。
戦闘で障害を負った傷痍(しょうい)軍人は、32万人
戦後海外からの引き上げ者数629万5496人
引き上げ時に起こった複数の集団自殺、また、外国人などから受けた被害によってできた子供を、違法と知りながら堕胎を引き受けた秘密の医療施設「福岡県二日市保養所」。約400~500人の女性達が麻酔なしで手術したとされる
また、戦後、日本の女性と米兵など外国人兵士との間に生まれた子どもたちを預った神奈川県内の施設
その人数2000人以上。“敵兵の子”と呼ばれその後も差別を受けながら育った
戦後、復員兵が帰還により、職についていた180万人の女性の解雇なども
海外戦没者数民間含め約240万柱中
収容できた遺骨は約128万柱
未収容遺骨約112万柱(収容可能遺骨約59万柱・収容困難約23万柱・海没約30万人柱)
水面下で続いている戦争の影響
戦争により精神を病んだ兵士達
終戦時に精神神経疾患の兵士の資料などは焼却
ひそかに精神神経疾患専門の国府台陸軍病院(千葉県市川市)に患者約1万人を集めていたが、その存在は隠蔽された
入院しないまでも、現在のPTSDに該当する人々を含む精神神経疾患の兵士は、少なくとも数十万人に上ったと考えられる(記事:朝日デジタル)
その兵士を支える家族にも多くの精神的な負担は続き、PTSDという言葉もない時代、戦争が原因だと訴えることもできなかった
そして、被爆者、戦争孤児、傷痍軍人、満州から引き上げてきた方々への偏見と差別、被害者のはずが、さらに同じ国民による精神的苦痛をうける
(令和4年3月31日現在も、被爆者(被爆者健康手帳所持者)の方々は全国で11万8,935人)
自分だけでなく、家族、友人、知り合いなど、身近な人の犠牲を目にしながら、生き残った人たちに残る罪悪感や後悔はトラウマとなり、その思いはこの世を去るまで消えることはなく
私たちの祖父母、両親が経験してきた心の傷は
抑うつ症状やアルコール依存症、暴力や無気力、自殺企図など、様々な形となって現れ、戦争を知らない私たちにも水面下で影響を及ぼしてきた
その傷は、終戦から2024年で79回目にしても、まだ終わっていない